【祖母との別れ①】享年100歳の祖母の命日(2020年7月23)

祖母との別れ

祖母の死に際して思ったこと。

・自分が思っているほど他人は他人に興味がない(そのままの意味)

・人と比べない

・人との縁は自分からつなぎとめておかないとすぐ切れる

虫の知らせ

この日は海の日で祝日。

連休の初日。

とはいえコロナ禍で休みは関係ない。

午前中は近所の商業施設に買い物に行っていた。

プラプラ見て回って和菓子でも買って

午後12時過ぎに帰宅した。

帰宅後しばらくして家に電話がかかってきた。

嫌な予感がした。

うちには電話はほとんどかかってこない。

かけて来るとしたら施設に預けている祖母の

面倒を見ている伯父ぐらいなものだ。

嫌な予感は的中した。

「バァちゃん、死んだって。」

電話に出た母が、そう告げた。

祖母は母方の祖母だ。

だから伯父は母の兄であり

祖母は母の母親である。

その祖母は100歳だった。

電話より1時間ほど前の

午前11時半頃、息を引き取ったらしい。

祖母は以前は伯父の家にいたが、

高齢のため施設に入り何年間かずっとそこで過ごしていた。

亡くなる1ケ月ほど前に

祖母は施設の風呂場で倒れた。

入浴中、突然意識を失ったらしい。

すぐに発見され、大事には至らなかったとはいうものの

顔面を強打した。

それから寝込むようになった。

あまり食事をとらなくなり

かなり痩せていったそうだ。

今月あたりがヤマなんじゃないかと…。

私は勝手にそう思っていた。

そしてなんとなく7月の連休あたりじゃないかな…と。

まさか本当にそうなるとは思わなかった。

祖母は末期の胃ガンだった。

本人には告知していない。

ところが当の本人は全く具合が

悪くなかったそうだ。

高齢のため手術もできない。

ところがガンの進行は遅い。

しかし何の影響もないとは考えにくい。

結局死因は分からない。

食事が摂れなくなり動けなくなり

徐々に衰弱していったのだろう。

祖母と最後に会った日

祖母が亡くなる約半年前

2020年1月某日

祖母の100歳のお祝いパーティと

玄孫(やしゃご)のHくん(0歳)のお披露目会があった。

親戚一同がレストランに集まった。

伯父はずいぶん老けていた。

そして前に会った時はまだ子供だったいとこたちは

すっかりおじさん、おばさんになっていた。

誰だか分からなくなっていた。

祖母は知事やら市長からの祝辞のメッセージをもらっていた。

さすがに100歳まで生きるとそうなるのか。

祖母に金色のちゃんちゃんこを着せ

親戚一同と記念撮影。

祖母とはひとことふたこと言葉を交わした。

久しぶりすぎて何を話していいか分からない。

おまけに祖母は耳も遠い。

普段あまり交流がない人との会話は間が持たず

私はひたすら料理を貪り食うしかなかった。

40代で孫がいる「いとこ」と今までなんとなく生きてきてしまった「自分」

祖母の玄孫(やしゃご)のHくん(0歳)は私のいとこの子供の子供である。

祖母から見たらの孫の孫。

で、玄孫(やしゃご)。

ちなみにそのいとこは私の1歳年上。

いとこは40代でもう「おばあちゃん」になった。

40代で孫がいる。

つくづく私は持たざる者だと思った。

かたや同世代のいとこは独立して子供も孫もいて

私はいまだ低所得でずっと生家で家族暮らしをしている。

何者でもなければ、何も持っていない。何も成し遂げていない。

今までなんとなく生きてきてしまった。

「自分が何者でもない」というのが

今まで強烈なコンプレックスとなっていた。

自分は「何者」でもない。

就職してない(正社員ではない)

結婚していない。

子供もいない。

社員にもなれず、妻にもなれず、母にもなっていない。

自分へのラベルがない。

これら前時代の「常識」を経験していないことへ対して

他人から追求されることをずっと恐れていた。

「就職しないの?」「結婚まだなの?」

祖母や親戚たちから詮索されたくない。

説明をしたくもない。

興味本位で聞かれたくない。

会ったら聞かれるので親戚とは20年以上会わないでいた。

20年前、親戚たちに最後に会ったのは祖父の葬式の時だった。

親戚たちと20年ぶりに再会。

現在私は正社員ではないものの、某大会社の末端の事務員として

数年間働いている。

もういっぱしの「会社員」にはなっている。

誰にでも説明して理解される立場になっている。

「私は会社員だ」と言い張ればいい。

非正規だけど。

もう大丈夫だろうと思った。

やっと集まりに顔を出した。

いとことおじさん、おばさんたちは

年はとったものの変わっていない。

ただ、いとこの子供たちが増えていた。

その子たちは面識がない。

そしてもちろん、

親戚たちは私の仕事や婚姻状態とか

誰も気にしてない。

彼らは各々の人生を生きることに

忙しい。

自分は自分

いつまでも他人の人生などにかまっていられない。

私はただの自意識過剰だった。

誰も私の人生のことは気にしてない。

誰とも比べる必要はない。

自分は自分。

そんな当たり前のことが頭で理解していても

納得して腹落ちできるまでには

随分と時間がかかってしまった。

会えるうちに会う。いつでも会える、はない。

2020年1月。

祖母のお祝いの食事会の時点では

まだコロナは猛威を奮っていない頃。

自由に集まって食事して話ができた頃。

これが20年ぶりに祖母と再会して

最後となった日だった。

あの時に祖母に会っておいてよかった。

いつか会おうとかモタモタしていたら

本当に一生会えないままだった。

そうこうするうちに

コロナが流行りだした。

お見舞いとか言ってられなくなった。

コロナが落ち着いたらとか

言ってるうちに祖母は亡くなった。

もう二度と祖母には会えなくなった。

人との縁はいつまでもあるものではない。

いつか会おう、いつでも会えると

いうわけではない。

人の考えていることを勝手に想像しない

通夜が翌日24日の夕方、葬式が25日。

通夜には最初、両親だけが行くと言っていた。

私と姉が親戚たちと馴染めていないことに

両親は気を使ったのかもしれない。

正直あまり気が進まない。

しかしこれが祖母との最後の別れになる。

私は行くことにした。

姉はやはり気が進まないようだった。

というのも20年前祖父が亡くなった時のことで

姉は親戚たちとのわだかまりを感じていた。

当時、祖父の葬式の準備の手伝いを

年長者である姉がやらなかったこと。(姉は仕事がある上に祖父の家とは遠距離だった)

当時祖父の近所に住んでいた高校生のいとこに

葬式の受付などをさせたこと。

姉はこれらのことを気にして気に病んでいた。

しかしこれらの姉の懸念は親戚たちから直接言われたことではない。

すべて姉の思い込み、勝手な想像でしかない。

「人の考えていることを勝手に想像しない。

自分のメンタルをやられることになる」

私は姉にそう言った。

父も同じようなことを言った。

もしそれでも気になるなら

「じいちゃんのお葬式の時は

色々やってくれてありがとう」と

いとこに感謝を述べればいいだけだ。

ありもしないことへの謝罪より感謝を伝える

伯父にも感謝をしないといけない。

伯父やいとこたちが祖母の面倒を見てくれたおかげで

祖母は寂しい思いをしなくて済んだ。

玄孫まで見ることができた。

ありもしないことで気に病むより

してくれたことに対して感謝をしよう。

私の悩みと姉の懸念

私の悩みと姉の懸念。

どちらも自分の頭の中で

勝手に膨らませていただけのものだった。

実体のない幻想だった。

過去の自分を正当化したいだけだった。

大切なのは「これからどうするか?」

現在を見て未来へ進むことだ。

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