【祖母との別れ②】享年100歳の祖母の人生(2,020年7月24日)

祖母との別れ

通夜の会場にいた祖母

2020年7月24日。スポーツの日

本来なら東京オリンピックの開会式をする日だった。

夕方、家族で通夜が行われる隣の市へ車で出かけた。

途中高速道路がプチ渋滞。

連休だからだろう。

向かっている斎場は20年前、祖父の葬式の時に

行ったところと同じだった。

自宅から父の荒い運転で高速を飛ばして約45分、

途中で道を間違いながらも

なんとか斎場に到着した。

地元に住んでいる親戚一同はすでに来ていた。

祭壇にたくさんの白い花が飾られている。

そして祖母の写真、遺影がある。

白い大きな箱がある、棺か。

覗きこむと、そこに祖母がいた。

眠っているように横たわっていた。

祖母の顔はろう人形のようだった。

文字通り生気がない。

白髪の髪は整えられ、顔はきれいに化粧が施されていた。

そして祖母の顔は細かった。痩せていた。

遺影の顔は99歳のものだった。

それと比べると元々丸顔の祖母の顔が

明らかに痩せて細くなっていた。

私と一緒に祖母の顔を見ていた父は自分の目元を

ハンカチで拭っていた。

若い頃に自分の母を亡くした父にとって

義理の母である祖母は文字通り母のような

存在だったのかもしれない。

母の私は父方の祖父母に会ったことがない。

というのも全員私が生まれる前に亡くなっているからだ。

仏式の葬式に出たことがない。

葬式は今回で2回目。

しかも両方カトリック式だった。

なので僧侶が来て読経とか焼香とかは

したことがない。

(アイキャッチ画像が十字架なのはそのため)

18時、通夜が始まる

カトリック式の葬儀のため、

神父様が2人やってきた。

葬儀のしおりを配る。

その内容に沿って通夜が行われた。

キリストの最期のシーンのような場面を読み上げていた。

よく聞いたことがあるあのフレーズ、

「おんみはおんなのごたいないのナントカ」のやつだった。

天使祝詞

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%BF%E7%A5%9D%E8%A9%9E

そういえば祖父が亡くなった時

祖母がシスターみたいな人と一緒に延々と

その祈りの言葉を唱えていた。

祈りの言葉を聞きながら

ずっと祖母のことを考えていた。

祖母は祖母になる前は普通の少女だった

祖母はごく普通の地方の田舎町の少女だった。

農家の7人兄弟の末っ子。

普通に育ち学校に行き友達とおしゃべりして遊んで

同級生に淡い恋心を抱く。

自分と同じくどこにでもいる少女だっただろう。

成長して就職して結婚する。

戦争がはじまる。

空襲がひどかった地域ではないものの

生活は厳しかったのではないか。

夫である祖父は中国へ出征し

死線をさまよって帰ってきた。

母を含む3人の子供に恵まれ、

私を含めた6人の孫がいる。

さらにひ孫、玄孫がいる。

祖父は20年前に他界した。

田舎のばぁちゃん家

約40年前、祖父母の家に以前は叔父一家も住んでいた。

まだ小さかったいとこ兄弟もいて大家族だった。

にぎやかだった。

子供の頃私は盆と正月によく泊りがけで遊びに行っていた。

しかし叔父一家は子供が大きくなったので

別に家を建てて出ていった。

2階建ての家に祖父母だけが残った。

祖父母が足を踏み入れなくなった2階には

いとこが小学生の頃好きだった戦隊ヒーローのポスターが

壁に貼られたままだった。

私は大学を留年した頃から

毎年の盆と正月の親戚の集まり会に顔を出さなくなった。

やがて祖父は病気がちになり入退院を繰り返す。

そして祖父が亡くなる。

これが20年前。

かつて子供たちの笑い声が溢れていた家。

祖父が野菜を育てていた小さな庭。

祖母はあの一軒家に一人残された。

時々私の住む家に祖母を両親が連れて来ていた。

その時も祖母とはあまり会話はなかった。

そうするうち祖母は外出する体力がなくなっていった。

ヒザも悪くなり手術した。

うつ病にもなった。

祖母は祖父と暮らしたあの一軒家を離れた。

伯父の家に身を寄せたが伯父も高齢のため

面倒を見ることが難しくなっていった。

祖母は施設に移った。

すっかり祖母とは疎遠になっていたものの

様子を見に行っていた両親から近況は聞いていた。

親戚たちは祖母を見捨てたわけではない。

伯父一家やいとこは遊びに行って孫を見せたりしていた。

90歳の大台を突破した。

元気そう、とは聞いていた。

祖母にステージ4の胃ガンが発覚した。

本人に自覚症状がなく、ガン告知はしていない。

高齢のため、手術もできない。

もうあと何年生きられるか分からない。

そして祖母は100歳になった。

末期の胃ガンとは聞いていたものの

以前の食事会の時はパクパク食事していた。

元気そうだった。

元気そうだったのにすっかり痩せてしまっていた。

祖母は苦しくはなかっただろうか。

辛くはなかっただろうか。

寂しくはなかっただろうか。

祖母の親や兄弟はもうとっくにいなくなっている。

夫である祖父も先立ってしまった。

100歳ともなれば生家の家族、かつての友人はほぼ存命ではないだろう。

自分を知る人がひとりまた一人いなくなっていくのは

いったいどういう気持ちなのだろうか。

祖母のことを思い、泣いた。

祖母の人生に思いを馳せるためにここに来たのだ。

マスクの中が涙と鼻水でべちょべちょだった。

着慣れない冠婚葬祭用衣装と真夏の極寒

神父様の祈りの言葉の後、

ひとりずつ白い花を祭壇に献花する。

知らない年配の女性がいた。

行きつけ(?)の教会の人?

参列者は親族一同数名と施設の人くらいだった。

コロナの時勢もあるものの

100歳の祖母にはもうそんなに知り合いが来ないのだ。

祖母を思い悲しみにくれつつも

私は寒さに震えていた。

会場はエアコンがガンガンに効いていた。

猛暑を想定していたものの

2020年は梅雨が明けておらず

涼しかった。

しかし暑いかもしれないと思って半袖ワンピースを着ていった。

予想に反して寒い。

Yシャツ・ネクタイにジャケット着用の男性目線の

エアコン温度設定なので

たいていこういう会場はエアコンききがちなのだった。

完全に誤算だった。

意識が「寒い」しか感じられなくなってきた。

祖母へのお悔やみはどこへやら。

このために久しぶりにクローゼットからひっぱり出してきた喪服。

長袖ジャケットのサイズが少しきつくなっていた。

まあ暑いだろうしツインの半袖ワンピースでいいかと思ったのだった。

長袖は必須である。

喪服は時々サイズチェックしよう。

ストッキングも足が冷える。

履き慣れなくて気持ち悪い。

ストッキングが伝線しそうで不安だ。

久しぶりに履いた冠婚葬祭用の靴の

中敷きがはがれる。

歩くたび靴の中で動いて気持ち悪い。

久しぶりのアイテムを予期せず使うと

大抵どこかしら不具合が生じる。

コロナ対策とかしてない

通夜は約1時間だった。

通夜の後、親戚一同と会食する。

いなりずしやおにぎりと、肉気のないオードブルが振る舞われた。

大皿に取り箸。誰が使ったか分からない紙コップ…。

ソーシャルディスタンスもなく、コロナ対策も何もない。

なんとなく親戚一同みんな黙ってもしゃもしゃ食べる。

この後、もしコロナに感染したら

なぜこんな時期に会食したのかとかこういうのを咎められるのか…。

数日間罹患してないかしばらく不安だった。

私達一家は20時になる前に帰宅することになった。

帰る前にもう一度、棺の中の祖母の顔を見る。

「明日また来るね」と言い残して。

本編と全く関係ない話・米軍関係車両とデッドヒート

帰りの高速道路にて。

父の運転が荒くて怖い。

車線変更が多くて怖い。

車間距離が短くて怖い。

徐行という概念がなくて怖い。

その荒い運転の父の車と同じくくらい

ハイウェイをスピートあげてギュンギュン飛ばす車があった。

変わったナンバーをつけていた水色のバス。

見慣れないナンバーには「N91」「US.GOVERNMENT」の文字。

※画像はお借りしました

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:US_GOVERNMENT_registration_plate_in_Fukuoka_Japan.JPG

「US.GOVERNMENT」 ?

アメリカ政府?

前に回るとSASEBOの文字。

米軍関係者?

「米軍用の空港・佐世保基地間連絡バス」だそうだ。

確かに全く葬式と関係ない話。

今回のいかがでしたか?

・葬式は生きた人間のためにある。故人をことを想う儀式。

・日頃から喪服や小物類の状態チェックをしておく

特に靴はカビがち。

・米軍関係車両は運転が荒い。

なんの話?

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